今日も普通の人に憧れて。

とあるアスペルガーの生きる術と日常。

「普通」とズレているということ。

 

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今日はこのお話について。

当事者の視点から書きます。

(あくまでも個人の見解であり、全ての発達障害の当事者が同じ感覚というわけではありません。)

 

 

このブログでは、普通の人=健常者としています。

詳しくは最初の記事を読んでください。

readme.txt - 今日も普通の人に憧れて。

 

 

 

 

 

「普通の人」が書いた記事タイトルから見えるもの

 

この記事の最初の言葉を読んで、涙が滲んでくるくらいガツンと心に来ました。

 

 ≪自分の中の「普通」がその社会の「普通」とズレていることを嗤(わら)われるのはもう嫌だった。突きつけられるのも嫌だった≫

 

それは、気持ちが痛いほど分かってしまうから。

 

でもこの記事のタイトル、上記の引用部分が「自分の『普通』嗤われるの嫌」って要約されているんですけど私からするとだいぶ違う。

 

私とこの亡くなられた方が同じ気持ちだったかは分かりませんが、少なくとも健常者の方よりは当事者の私の方がずっと近いと思います。

 

自分の『普通』嗤われるの嫌

 

というここでの『普通』は「自分の持つ『普通』と認識している価値基準が」という意味でだと思われます。そしてその基準は相対的な基準でなく、自己における絶対的な基準という意味で書かれている。

 

もうすでにここで違う。

 

まず、自分の事を普通だと思っていません。

 

だから ”「自分の『普通』」”なんて書き方は、ありえないんです。

 

そして、「普通」という価値基準は他人に依存しています。それは自分の事を普通だと思っていないからです。その”他人”は学校ならクラスの中心的人物だったり、仲の良い友達を「普通の人」とみなし、その存在をもってして「普通」の価値基準の標準原器とするのです。他人依存なので相対的な価値基準です。

 

これって、すごく危ないことなんですよ。まさに、性善説での運用。仲のいい友達だって、もしかしたらカモやパシリにしたいだけかもしれません。

 

何をされても「それ、おかしい!」とは言えないんですよ。だって自分は普通じゃないって分かってるから。でもどこがおかしいのかさっぱりわからない。「○○ちゃんが言うから間違ってないよね。うん…間違ってない。」となるのです。

 

私はこれでパシリにもされましたし、小学生の時には当時一番仲の良かった友達から宗教勧誘をされ、断りましたが宗教勧誘デビューを果たしてしまいました。将来有望なカモです。

 

ですから、「自分の『普通』嗤われるの嫌」と要約するのは少々ピント外れのような気がします。

 

 

 

「嗤われる」という感覚とは

 

日常生活の中で「あれ?この子変わった人だな」と思うことがあるかもしれません。もっと直接的な言い方をするなら「あれ?この人普通じゃない、ちょっとアレな…」と思うかもしれません。まあ、人の心の中は分かりませんけれどもね。

 

でもそれと同じタイミングで私の中でも「あれ?今の場面、私普通じゃなかった??」「普通に見えなかったのかも…??!」となっているのです。気づけばの話ですけど。

 

この、”相手に何か思われたという感覚!がどんどん派生していって、どんな反応もストレスを感じるようになってしまうのです。そう、しまいには目線を感じただけでも。

 

「何か思われたかも…自分が気づかなかっただけでって。

 

 そのストレスが積みあがってくる、被害妄想が加速するその言葉にできない感情を形容して「嗤われる」という言葉になったのだと思います。なぜか、とてもしっくりくる。この感覚を隅から隅まで説明できないのは、私の文章力のなさなのかもしれません。

 

 

 

「突きつけられる」という感覚とは

 

この亡くなられた女性や私のような人間は「普通」ということを嫌でも毎日意識してしまいますが、健常者の方はそんな私たちから「普通」だと思われていることに気づかないんですよね。「普通の人は普通であることを意識していない。」これ、すごく孤独を感じるんですよ。

 

自分が普通ではないことを、人とズレていることをどうしても意識してしまう。

 

毎日。毎日。

 

嫌でも視界に入るかのように。

 

その感覚が「突きつけられる」という感覚です。

 もっと言うと”視界に入る”なんて言い方は甘くて、それよりもより心に刺さる感覚。

 

「お前どうなってんの?ちょっとおかしくない?」と、底の見えない男に胸元を拳でノックされているような、そんな感覚なんです。

 

 

 

「レッテル」を貼っているのは誰?

 

母親は発達障害を疑い、何度も相談していた。(中略)

小学校でいじめに遭ったときには児童相談所にも尋ねたが、「レッテルを貼るのはどうか」という意見だった。

 

 いやあ、レッテルを貼っているのは誰なんでしょう。

都合のいい解釈をしたい人がそうしているだけに過ぎません。

少なくとも診断を受けたがっていたこの女性はそうは思わなかったでしょう。

 

母親は言う。「私がずっとそばにいてあげられるなら、診断は必要なかった。でも社会に出たらそうもいかないから、何かしらの支援や助言がもらいたかったんです。二十歳になったらまた相談に行こうねって話していたんだけど、娘は待ってくれなかった」

 

”私がずっとそばにいてあげられるなら、診断は必要なかった。” 私はそうは思いません。結構、親の言葉って信用できないんですよね。自分の子ども可愛さに贔屓目に見えているんじゃないかって思えてしまって。

 

「自分は普通じゃない…かもしれない」というその気持ちを、狂いそうになるくらい孤独で、かきむしられるようなその不安を…払拭できるほどの言葉を親が持っているなんて私には思いません。

 

 

人と違うことに劣等感を抱え、何度も自傷行為をしてきた男性は「障害と分かって、ほっとした」。 

 

私も告知を受けたときは、 泣きました。

でもそれは悲しみの涙ではなくて、不安の糸が切れて一気に緊張から解放された安堵感から泣いたのです。ほっとしたんです。

 

告知を受けるまでは、学校の先生から「そんなに痛いの?ただ擦りむいただけじゃない。そんなに痛がらなくても。そんな大げさな」と言われた時には、

 

「あれ?みんなこんなに痛いのを、手を患部に当てて涼しい表情しながら声も悟られないくらいに押し殺してるの?それが普通ってことなの????」

 

と、思っていました。今でこそそれが普通ではないと理解できるのですが、当時には何が何だか分かりませんでした。

 

今は当事者の気持ちはもちろん、健常者の方の気持ちもだいたいなら分かるようになってきました。その健常者の気持ちが分かるようになってくるにつれて異常なほどの感覚過敏さは薄れていきました。どこか頭の回路が繋がったのかもしれません。いつか研究者に調べてもらいたいものです。

 

でも、擦り傷だけであんなに痛かったのは本当です。

 

学校の先生は、自分の手に負えない事柄は邪魔だから共感もしないし、ただ

「我慢しようね。みんな我慢してるよ。」

って言うんでしょうね。この言葉、発達障害あるある義務教育100万回言われた言葉ベストテンに入りますよ。 

 

こんな風に孤独になっていくんです。みんな我慢しているのに…と。と同時にどんどん自己肯定感も下がっていく。

 

だから、「大丈夫、あなたは普通だよ」なんて言われ続けるより

「あなたは普通じゃない」 と肯定された方が安心する。

そんなもんです。

 

 

 

発達障害の診断が、時には「救い」になる

 

私は「あなたはアスペルガー症候群です」と言われて、「あなたは普通の人ではありません」ということを肯定できた気がしました。

 

やっとその時に初めて「自分は人と違うだけ」と、優劣ではなくそこにただ存在している「差異」というものに目を向けられるのです。

 

診断を受けて、気持ちの上でやっとスタートラインに立つことが出来たのです。

 

前向きに生きることが出来そうだと意味もなく力がみなぎってきたのです。

 

だから、

行政が設置する発達障害者支援センターは「障害があるかもしれないが、診断を受けてもらわないと支援はできない」。県がリストアップした専門医療機関に行くよう促され、18歳以上を対象とする病院に電話をかけたが、「思春期は診断が難しい。20歳になったら来てください」「予約が殺到していて受けられない」と断られた。

こんな断られ方されたら、自分は生きていけないと思います。

居場所も存在も否定されているように感じてしまっただろうから。

 

私もこの亡くなられた女性と同じ20代前半。

私が小学校の時に診断を受け、中学生の時に告知を受けたのは本当に運が良かっただけだと思います。私にも存在していた人生の分岐点、私が歩かなかっただけの歩くかもしれなかった道だとどうしても感じてしまうのです。

 

この記事に「診断を受けても駄目だったかもしれない」といった趣旨のブコメがあったように記憶していますが、私はそうは思いません。

 

診断は、救いであり、そうでない人にとっても何らかのスタートラインに立つために重要なものだからです。

 

おわりに

 

 普通とズレているということは、とてもつらいんです。

 

だから、死を選んでしまった気持ちがよくわかります。

このたらい回しとも言えるような役所の対応は、社会の仕組みが追い付いていないために起こっているのだと思います。

 

KY、空気読め…なんて 言葉が登場してからというもの社会の許容範囲というようなものが狭くなってきた感覚があります。

 

シビアな基準で「普通の人」が選別されているような気持ちになります。

 

 そんなの誰にとってもよくありません。

 

全ての人に違いがあり、それが当たり前のことだと言える世の中になってほしいと思います。

 

 

ここまで4254字の長文を読んでくださりありがとうございました。